映画「クリード」

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2015年の紅白で黒柳徹子を久しぶりに見たのだが、何だかフガフガとしたしゃべり方になっていて、ああこれは、総入れ歯になったのかなと感じた。
馬鹿にしているわけではない。そんな彼女を無邪気に小馬鹿にできるのは、自分の身に老化を全く感じた経験のない、ひとにぎりのバカな若者くらいのものだろう(そして僕自身かつて、そんなひとにぎりの馬鹿な若者だった)。
毎年紅白は実家で見るのだが、そんな今年は、テーブルの上に置かれた水の入ったコップに、母の部分入れ歯が入っていた。

ボクシングのことに関連して時折ふと思い出すのは、亀田興毅が有名になっていった時に、ある別の若いボクサーが、亀田についてどう思うか? とテレビでインタビューされていたときのことだ。
おそらくは、批判や反感のコメントを引き出したかったのだろうが、そんなインタビュアーの意に反して、彼は「でも、亀田のあの腕の筋肉の付き方はすごい。並大抵の練習量でないことは自分には分かる」というようなことを答えていた。

クリードでは、ロッキーが老人であることを強調しているような演出であったと感じた。昔から良くなかった滑舌が(笑)一層聞き取りにくくなり、その足取りは重く、練習のミット打ちの相手はもう彼には出来ない。妻と友人は既に天国へと去ってしまった。孤独に余生を過ごしていた老人である。

この映画は、若き主人公アドニスの挑戦と闘いの物語である(ロッキー1のリブート作品といっても差し支えないかもしれない)。だがしかし、ロッキーはアドニスをサポートするだけではない。ロッキー自身の闘いも、そこに存在し描かれているのである。

もちろん、闘いというのは、誰かを殴ったり、倒したり、競争したりすることの中だけにあるのではない。「自分自身との闘い」、それがボクシングであり人生なんだ、とロッキーは言う。
「大事なのはパンチの強さじゃない。どんなに打たれても前に進み続けることだ」とロッキーはアドニスに伝える。

それはアドニスのような若者のためだけの金言ではない。孤独に余生を過ごす老人であっても、総入れ歯になってしまった老人にとっても、自分自身の闘いのリングはそこにあるだろうし、前に進み続けることは可能なのであろう(さらにいえば、ここでいう老人は実際の年齢についての話だけではない)。

映画の英語版公式サイトでは、”#I FIGHT FOR”という企画があり、出演者や一般の方々が投稿を行っています。ある人は”I FIGHT FOR FAMILY”と言い、ある人は”I FIGHT FOR THE ONE I LOVE”と言う中、スタローンは、”I FIGHT FOR THE UNDERDOG”とビデオメッセージを寄せています。
UNDERDOGとは、「勝ち目のない人」「敗残者」「弱者」「負け犬」という意味の言葉です。

映像技術の進化により、ボクシングのシーンがステディカムの超長回しで撮影されており、それが今まで見たことのない迫力のあるボクシング映像となっています。本当のボクシングの試合映像よりも、何倍も臨場感があるくらいだ。

そしてこれはネタバレになるかもしれないですが、「あの音楽」はちゃんとかかります。
あの音楽を聴いて、拳を膝の上で握りしめて、そして一緒に泣きましょう!

(岡山はイオンシネマでやってます。今の駐車場料金は、平日限定2時間+映画分2時間=計4時間が無料になるようです。)

映画「インサイド・ヘッド」

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インサイド・ヘッドがレンタル開始されたので見てみました。

映画の中で、「なぜ人間には悲しみという感情があり、それは欠くことのできないものなのか?」という問いが投げかけられていて、それに対する回答がこのラストシーンだと思うのですが、
それを言葉でうまく説明するのって、案外難しいですね。
でも、考える価値のあるテーマのように思います。

この感情の擬人化というアイデアって、コメディ寄りの方がより面白いかも。最後のエンドクレジットや、おまけのショート・ムービーが、本編に負けず劣らす面白かったです。

「たいへんだ、意見と事実のボールがごちゃませになった!」
「よくあることさ」
というくだりも示唆的ですね。

オブセッションの発露

このあいだのラジオでジェーン・スーさんが、学生時代のアメリカ留学を、1年で終わらせて帰国しなければいけなかったことに、今でも後悔と複雑な思いを強く抱いているという告白をしたのは、とても意外だった。

それでちょっと思ったのは、スーさんのラジオのしゃべりには時々、難しめの英単語が出てくるんですよね。controversialとか mandatoryとかabstractとか。日本人にもある程度浸透している一般的なカタカナ言葉とは言いがたいものが、ぽろっと現れます。

それは英語好きというポジティブな側面から出てくるのかもしれないけど、ひょっとしたら、何らかの「疵」からにじみ出てくるものかもしれないですね。

いや別に、そういうスーさんを否定したり小馬鹿にしているわけでは全然なくて、そういうことって(僕の中にもたぶん)あるよねえ、という気持ちです。

TBSラジオリスナー的に言うと、町山智浩さんが毎回必ず「僕の創刊した雑誌」映画秘宝と言うことであるとか、菊地成孔さんが写真に撮られる時、いつも必ずレンズに対して真正面に顔を向けず、斜めに顔の左側を向けることがとても多いことであるとか。

意図的に(戦略的)にやっているのかなあと思っていたのだけど、ひとつのオブセッションの現れかもしれないですよね。いや、その方が人間味を感じます。

桃太郎トマト

このトマト美味しいなあ、と思ったら「桃太郎トマト」と書いてあって、やはりブランド野菜は美味しいなあ。

でもこの美味しさって、単に甘みが強いだけではないだろうか。

いや、美味しければ何だって良いと思うけれど、甘いのがよければ、砂糖をかけて食ってろという言い方もあるわけで。

ほら、何でもかんでもケチャップをかけて食べる人は、味オンチとされるじゃないですか。つまりそういうことです。

野菜は甘い物をありがたがり、スイーツは甘くないものをありがたがるというのも、単純な気がしていて。いや、単純で良いんですけどね。

なんでもかんでも「カワイイ」で済ませていいのか? いいんだ! という話です。

ベッド・イン

名前と存在は知っていたけど、ラジオとテレビで見た「ベッド・イン」は想像以上に楽しかった。

あやまんJAPANもそうだけど、「エロ&ピース」って嫌いじゃないです。
ひとりがギター弾いてるってところが、色物だけじゃないよ感があって素敵。

書籍「断片的なものの社会学」を読んだ

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ツタヤ図書館ならそのまま「社会学」の棚に入ってしまうところですが、この本は「エッセイ・随筆」の棚に入る本です。沖縄、被差別部落のテーマなどを中心に、当事者個人の生活史を聞き取るスタイルで調査研究を行っている社会学者の岸政彦さんによるエッセイ集です。

その意味では「社会学の断片的なもの」と、タイトルをひっくり返した言い方の方が、この本を的確に現しているように思います。

解釈できないこと、白黒はっきりつけることができないこと、名付けることができないものごと、どのように折り合いをつけて、考えればよいか分からないこと、そんなことがこのエッセイで扱っているテーマです。

例えば、私たちにはもっともつらいその時に笑う自由があるということ、私たちが持っている幸せのイメージは、時として色々な形で、それが得られない人々へ の暴力となること、本人の意思を尊重するというかたちでの搾取があること、そしてまた、本人を心配するというかたちでの押しつけがましい介入があるという こと、かけがえのない自分とか世界でたったひとつの自分とか、そういうきれいごとを聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、自分がたいしたことのない特別な価値などないようなものであることを、思い知っているからかもしれないこと。
などなど。

自分の考え方の枠を(心地良く)ちょっとだけ押し広げてくれる本ではないかと思います。

http://www.amazon.co.jp/dp/4255008515