仙台・気仙沼旅行から一月経って

そろそろ仙台・気仙沼の旅行から1ヶ月が経ちます。面白かった落語とか、美味しかった食べ物の思い出も余韻が残っているのですが、やはり大きく今でも胸に残っているのは、被災地としての光景です。
とてもインパクトの大きな、重たい旅の思い出です。まだまだ自分の中で未消化であり、どのように受けとめてよいのか分からずにいて、平常心で日常を過ごしている感じではありません。
(被災地の方からしたら、岡山から観光に来た人間が何言っているのという感じでしょうが・・・)
岡山の皆さんも去年の3月11日の直後は、平常心でいられなかったり、自分に何が出来るんだろうと自問自答していたと思うですが、要はそんな感じです。とはいえ、じゃあこれから、被災地支援ということを大きなテーマとして何らかの動きをしていくんですか? と聞かれれば、YESとは言えない部分もあります。
誤解を招く乱暴な表現ですが、やっぱり仙台・気仙沼にいる方々は、自分にとっては「遠くの他人」なんですよね。自分の人生の諸問題以上に、強い関心を持てることはないわけで、「一生被災地に寄付をし続けます」なんてことはとてもお約束できない。
ただ、今強く心に浮かんでいるのが、「いいかげんなことは出来ないな」というフレーズです。自分が他者にしてあげられることは特に何もなかったとしても、「せめて、いいかげんなことはしないでいよう」と思います。
じゃあそれは、具体的にどんな行動をとることなのか? ・・・実はそれが今ひとつ未消化で、うまく言葉にできないのですが。
ひとつ具体的な行動としては、このブログを読んでいただいている方にはお分かりのように、今、放射能についての関連書籍やネット情報をよく読んでいます。「無知は罪」ではないですが、正しい情報リテラシー・メディアリテラシーを身につけるべきだと強く思っています。
さんま寄席の時に知り合った東京から来た子が、その後、会社でお土産のお菓子を配った時に、ひとりの方から、「これ除染してるの(笑)?」ということを言われたそうです。なんだかなあ・・・とこぼしていましたが、これって、配慮とか礼儀の問題でもあるけれど、放射能に対するリテラシーの問題だよなあとも思ったのです。
岡山でも被災地のがれき処理の問題が議論されていますが、これ、がれきを受け入れたとしても拒否したとしても、後になって「正解」かどうかがクリアーなることは考えられないと思います。だけど、その判断をしたり自分の意見を形作っていく際に、誤った根拠のないセンセーショナルな情報を鵜呑みにしたり、浅薄な知識だけで分かったような気になっているのは、愚かな行為だと思うのです。
正直、政府とか東電に信頼を置くことはできないのですが、かといって、反原発の団体なども決して信頼を置ける存在ではないと僕は思っています。ただ、「科学的な知見」や、「科学的・合理的なものの見方」には、信頼をおけるし、それを手がかりにして進んでいけるものだという風に考えています。それがつまりは、情報リテラシー・メディアリテラシーの大切な価値です。

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