科学とニセ科学のグラデーション



すべては気づき
http://sekaitabi.com/
この「すべては気づき」というサイトでは、放射能の危険性を訴えたり、原発にまつわる問題点の指摘、震災がれき受け入れ反対、東電の批判記事などを掲載しています。さらには、予防接種や遺伝子組み換え食品・添加物が危険であるという説や、311の地震は人工地震であるという説、NWO(New World Order)というユダヤ陰謀論まで幅広く掲載されている「全部入り」なサイトです。
これらのありとあらゆる警鐘を、全部鵜呑みにしている人はごく少数だと思いますが、でも厳密に考えてみると、ある程度の専門知識をもって一次情報を取捨選択し、その主張の妥当性を判断することができないという意味においては、NWOや人工地震などのオカルト説も、遺伝子組換作物の危険性の説も、同じくらい素人には判断ができかねます。
それぞれの人が、それぞれの知識や個人的経験に照らし合わせて、その説得力を受けとめ、なんとなく本当かウソかの線引きをしているのだろうと思います。
実は、科学哲学という学問分野でも、科学と科学でないものの客観的な定義というのは難しく、「線引き問題」という議論になっているテーマです。そこで、科学哲学者の伊勢田哲治氏が提案している、「科学の定義」が興味深かったので、噛み砕いた表現で紹介します。
それは、<「内容」そのものではなく「態度」で判断する>というものです。
主張の内容よりは、ある主張がどういう態度を取ってきたかということが、むしろ判断の対象として重要視されるべきではないかという考えです。
例えば、ゲルマニウムの健康商品。2009年に国民生活センターが調査したところ、販売業者は体に良いという科学的根拠を示すことが出来なかったばかりか、そもそもゲルマニウムが商品に微量にしか含有されていなかったという調査結果がありました。
もし、ゲルマニウムが本当に体に良い効能を示すのであれば、科学的な対照実験、疫学的調査、査読(ピアレビュー)など、信用できる科学的方法論を用いて、その効能を明確に証明するはずです。そのように調べることができるにも関わらず、それをやらずに「健康に効果があります」と言っているのは、信頼できる情報を発信している態度ではありません。
個々の主張の科学的妥当性の吟味は出来なくても、そのように「態度」に注目すると、浮かび上がってくるものがあります。それは、私たちの世間知とも共通する判断方法であると思います。「言っていることは間違っていないんだろうけど、なんとなく信用できない」という人物や商品を遠ざけるように。
ネット社会が発展していき、情報の量は増えましたが、その中身は玉石混淆です。「玉」も増えましたが、同時に「石」も増えました。知識そのものは簡単に入手できる時代ですが、それだけに「メタ知識」がより重要になっています。それは、どのような知識は知るに値し、どのような知識はそうでないかを弁別するための「知識のための知識」のことです。
あるいはまた、危機をあおる情報に対して、不安をコントロールしていくことも、「玉」の情報を得るためには必要なんだろうと思います。
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■体に良いとうたうゲルマニウム使用のブレスレット(商品テスト結果)_国民生活センター
http://www.kokusen.go.jp/test/data/s_test/n-20090625_1.html
■参考図書
もうダマされないための「科学」講義

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